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広瀬栄一コレクション拓本2-385●昭和期 明治16年 椿庭山田先生墓碣拓本 文京区 浄土宗蓮光寺 240901 古文書

広瀬栄一コレクション拓本2-385●昭和期 明治16年 椿庭山田先生墓碣拓本 文京区 浄土宗蓮光寺 240901 古文書[浏览Yahoo!拍卖页面]

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雅虎卖家:mankai8882002收藏卖家

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店铺卖家:个人卖家
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三边和 运费
60厘米 ¥51
80厘米 ¥62
100厘米 ¥74
120厘米 ¥84
140厘米 ¥96
160厘米 ¥107

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商品参数

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碑文の全てを網羅していないようです。
温知社に始まる明治期の熾烈な漢方存続運動の全貌をまとめたものに、深川晨堂氏の『漢洋医学闘争史』(6)がある。この巻頭には当運動に挺身した浅田宗伯以下の先哲の肖像が収められているが、一人業広だけは肖像がなく、その墓碣の拓影(図1)だけが掲げられている。かつて安西安周氏も当時の山田家当主・山田辰一氏に業広写真や肖像画の存在をたずねているが、何も伝わっていなかったらしい。まことに残念なことである。だがこの拓影となった「椿庭山田先生墓都碣」は、今日も東京文京区向丘(旧駒込)二丁目の浄土宗蓮光寺(図2)(7)に業広の墳墓「椿庭山田寺先生墓」(図3)とともに現存し、業広の名と偉業を現代に伝えている
山田業広墳墓の右側に位置する「椿庭山田先生墓碣」は、蓮光寺の中でも屈指の大きさで、ひときわ目立つ。明治十六年より二十八年までの毎月、東京の杏雨社より計二〇二号出版された漢方医学雑誌『和漢医林新誌』の第一六号には、この墓碣建立に関する記事が載せられている。これによると、明治十六年(一八八三)三月、橘隆庵・平原元琳・飯田貞庵・三浦克造等の門人により、業広の墓碣建設が計画されている。同年中に建立された墓碣は、巨大な自然石の表面を平らに削り、上方に篆書で「椿庭山田先生墓碣」の八字が、その下方には楷書で二〇行七一七字の碑文が彫られている。
 このように大きな墓碣は、共に漢方存続運動を担った浅田宗伯や森枳園等の墓碑と比較しても破格のもので、業広に寄せた門人達の厚い信望が窺い知れよう。墓碣文は森枳園が撰し、書は内田義脩、篆額は嶋田重礼がこれを任じた。撰文にあたった森枳園(立之)は、業広と同じく考証学派の泰斗・伊沢蘭軒門下五哲の一人である。彼は業広の最も親しい友人だったばかりでなく、学術上終生のライバルでもあった。枳園等による一連の古本草復元の偉大な業績は現代の中国でも高い評価を得ているが、この枳園が撰文しただけに、七一七字の碑文は業広の事蹟と業績を簡潔にまとめた名文である。
 ところで現在、業広の墓地を唯一管理している山田家のご子孫・直井輝子氏の談では、戦前の地所は現在よりはるかに大きかったらしい。戦後になって管理の都合上、現在の大きさにその地所を縮小したという。安西氏の調査(4)した戦前は業広の墳墓以外に、業精の夭逝した二男子(一人は名を昌仙、一人は無名)等の墓石もあったらしい。現在、業精を含めそれらの遺骨は一括して業広の墳墓に納められているが、その一部は墓地を縮小する際、山田辰一氏により小平霊園に移されたらしい。また高崎市の長松寺には業広までの三代が高崎藩に藩医として仕えた山田家先祖代々の墓もあったが、戦後に整理を受け現存しないという。
 以上の如く蓮光寺の墓碣は、山田業広の事蹟と家系の全体を現代に伝える最も貴重な資料である。だが一世紀の歳月を経た現在、1(昭和九年以前採拓)の如き明瞭なものは望み得ない。したがって今後の墓碣の風化を考慮し、今ここにその全文と現代語訳を録して後世の参考の資としたい。
〔原文〕
椿庭山田先生墓碣先生名業広、字子勤、通称昌栄、椿庭其号也。在原姓業平四世之孫、師信為大和国山辺郡山田岩掛城主、因以山田為氏。至二十一世師美、始以医為業、其子秀宗仕高崎侯、為侍医。其子由継父祖業、為高崎藩医長、娶同藩深井氏女、生三男四女、先生其長也。以父患{ヤマイダレ+音}風故年十七以医仕、食禄二十五口。先生初就朝川善庵、修儒学、後学漢方医術于伊沢蘭軒。蘭軒歿後、従多紀{サイ}庭、又受痘科秘訣于池田京水。天保八年丁酉、開業於江戸本郷春木町。弘化三年丙午移于弓町、安政四年丁巳五月、幕府命為医学館講師。文久二年壬戌正月、謁将軍徳川家定公、慶応元年乙丑、請藩致仕。明治元年戊辰四月、転居于高崎、五月高崎侯命為一等侍医兼政務参謀周旋局総裁、医政一皆出于先生。二年己巳十二月、為医学校督学。三年庚午十一月、藩政改革、更命為医学大教授。四年辛未五月、廃藩令下、諸局解官、七年甲戌再来居于本郷。十一年戊寅十月、及門相議、請官開医院于神田五軒町、名曰済衆病院、推先生、為院長。十三年庚辰三月、開演説会于院内、号曰温知社。蓋漢医演説、以此社為嚆矢。是歳十月、拝診皇子明宮凡月余、毎進御薬方。十四年一月廿日夜、忽発{ヤマイダレ+非}、喘息不止、百治無験、三月一日卒捐館。距生文化五年十月、享年七十四、吁嗟悲哉。先生屡遇諸侯聘、毎奏偉勲、以故小諸、福山、棚倉三侯賞賜月俸。及門弟子凡三百名、著書三十八部、一百六十三巻、医経、経方皆有注釈。至金匱一書終身精力所在、先賢未発説為不尠矣。其為人也、篤実謹厚、沈黙寡言、不与人争論。有人犯以暴言者、則先生莞爾而不怒。其為論説也、不好奇説、専以正大明確為旨。如仲景六経病与素問同為経府両病者、適与余宿攷符。其言曰、仲景序中已引素問、而其書中六経与経義乖、則序文為非仲景筆而削之乎。若以序為仲景筆、則云仲景六経与素問不同者、有何確拠而言之耶、是洵為千古不朽之論。其他医案弁論、不遑枚挙。娶同藩大沼氏女、生三男四女、長男夭、次業精嗣家。先生性不喜虚誉、故今以其在高崎所詠春日詩代銘。
家在青山緑水辺 図書千巻事鑽研
梅花未謝桃花綻 恰好東風二月天
明治十六年三月 辱知森立之撰 正六位嶋田重礼閲并篆 内田義脩書 井亀泉鐫
〔現代文〕
  先生の名は業広、字は子勤、通称は昌栄といい、椿庭(ちんてい)は先生の号である。その祖先は在原の業平である。そして業平四世の子孫である師信は、大和国山辺郡山田岩掛の城主となった。これより以降山田氏を称した。
 師信より二十一世の師美から医業を行うようになり、その子秀宗は高崎藩主の侍医となった。さらにその子の由之も父の医業を継ぎ高崎藩の医長となり、妻には同藩深井氏の娘を娶り、その間に三男四女をもうけた。業広先生はその長男である。先生の父由之は{ヤマイダレ+音}風(言語障害を伴う中風の類)を患ってしまったので、先生は十七歳で医業を継いで当主となり、食禄二十五口を受けた。
 先生は初め儒学を(山本北山門下の)朝川善庵(一七八一~一八四一)について修め、後に漢方医術を伊沢蘭軒(一七七七~一八二九)に学んだ。伊沢蘭軒の没後は多紀元堅(一七九五~一八五七)に従い、また痘科の秘訣を池田京水(一七八七~一八三六)より受けた。
 天保八年(一八三七)江戸本郷春木町にて開業し、弘化三年(一八四六)弓町に移転した。
 安政四年(一八五七)五月、幕府の命を受け江戸医学館の講師となり、文久二年(一八六二)の正月には将軍徳川家定公に拝謁。
 慶応元年(一八六五)、高崎藩に願い出てその職を辞し、明治元年(一八六八)四月には高崎に転居する。
 その年五月、高崎侯の命により一等侍医と政務参謀周旋局の総裁を兼任、医療行政は全て先生によってなされた。明治二年(一八六九)十二月、高崎藩医学校の督学となり、翌三年(一八七〇)十一月に藩政が改革されると医学大教授に任ぜられる。明治四年(一八七一)五月に廃藩の命が下り、諸官とともに先生もその職を解かれた。明治七年(一八七四)、先生は再び上京して本郷に居を構えた。
 明治十一年(一八七八)十月、先生の門下は相議して神田五軒町に医院の開設を役所に申請し、これを済衆病院と名づけ、先生を推してその院長とした。
 明治十三年(一八八〇)三月、先生は済衆病院で演説会を開き、この会を温知社と命名した。漢方医のこのような演説会はこの社を嚆矢とする。当年の十月、先生は明宮皇子(後の大正天皇)を拝診、以降おおよそ一ヶ月余りにわたって投薬した。
 明治十四年(一八八一)一月二十日の夜、先生は突然に{ヤマイダレ+非}(麻痺性疾患・中風の類)を発して、喘息止まず、あらゆる治療も効験なく、三月一日ついになくなられた。文化五年(一八〇八)十月に生まれ、享年七十四だった。ああ、何と悲しいことか。
 先生は臨床手腕に優れ、しばしば諸侯の招聘を受けては偉勲を奏し、小諸・福山・棚倉の三侯よりは月俸を賞賜されていたほどである。
 先生の門人はおおよそ三百名、著書は三八部一六三巻、医経(『素問』『霊枢』『難経』)と経方(『傷寒論』『金匱要略』)には全て研究・注釈がある。とりわけ『金匱要略』の一書に至っては先生が終身の精力を注いで研究したところで、先賢未発の説が少なくない。
 先生の人となりは篤実謹厚、沈黙寡言、人と争論することなく、暴言を吐く者に対しても、ほほえんで怒ることはなかった。
 先生は論説するにも奇説を好まず、専ら正大明確を旨としていた。たとえば先生は、張仲景のいう三陰三陽病は、『素問』熱論の所説と同様に経病と腑病をなすと論じている。これは完全に私(森枳園)の宿考と一致している。また次のようにも述べている。
 「張仲景は『傷寒論』の序ですでに『素問』の名を引いている。もし『傷寒論』中の六経(三陰三陽病)と『素問』熱論のそれが同義ではないとするならば、この序文は仲景のものではないとして削去することができるだろうか。そして序文を仲景の書いたものとするならば、『傷寒論』の六経と『素問』のそれが異なると言う者は、何の確実な根拠があってそれを論証できるだろうか」、と。これはまことに千古不朽の論である。その他、先生の治験案や考証・医論は枚挙にいとまがないほどである。
 先生は同藩大沼氏の娘を娶り、その間に三男四女をもうけている。その長男は早世したが、次男の業精が家業を継いだ。先生は虚誉を喜ばない性格だったので、今は先生が高崎在住時に詠ぜられた春日と題する詩を以て銘に代えたい。
 家は青山緑水の辺に在り 図書千巻鑚研を事とす
 梅花未だ謝らずして桃花綻ぶ 恰も好し東風二月の天
 以上が墓碣文の現代語訳である。さて本文にはいくつかの嫌疑点がある。これを正す前に、いま一つ業広と業精の事蹟を記した資料を挙げておきたい。本資料は明治二十五年出版の『明治医家列伝』(8)に収められた「山田業精先生之伝」である。当時は山田業精が、まだ盛んに『和漢医林新誌』や『継興医報』に投稿していた時期なので、編者が直接業精に取材してこの伝を著したものと思われる。形式は墓碣文に類似するが、それと相異する点や、言及されていなかった記述も少なくない。『明治医家列伝』も現在は稀覯書であるので、以下「山田業精先生之伝」の全文を収録し、諸賢の参考に付したい。出典:幕末考証学派の巨峰・椿庭山田業広

広瀬栄一氏は、石岡市高浜にある酒造会社の元社長で考古学文学に造詣が深く文人との交流も数多くあります。
台東区根岸にある子規庵の戦後の再建をした寒川鼠骨との交流や再建を経済的に援助した人です。

拓本は広瀬氏が収集したものしかないと思われ大変貴重な史料です。
拓本が取れるという広瀬氏の人脈に敬服致します。
拓本もまた文化財だと思います。
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てれば大変嬉しいです。
サイズは92.5×82㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケや破れがあります。
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