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フランス国立セーブル陶磁器製作所工房で創作活動をするビスキュイ作家、陶芸家。
ビスケット・白磁人形
【この作品は十八世紀の技法による軟質磁器 PT(ソフトペースト)によって制作されています。】
この作品の白色磁器(ビスケット)は十八世紀から続く型取り・修復作業アトリエで制作されました。ここではセーブル陶磁器製作所の白色磁器や彫刻類(丸彫り、浅浮き彫り)、ビスケットという意図的に釉薬をかけない白色磁器の作品が1751年及び1752年から制作されています。
作品にはセーブル工房のロゴと制作年度が刻印され、作家のサインが彫り込まれています。
当時、流行した結髪リボンをつけた、男女の狩猟人が岩の上に腰掛けた様子を描いている。傍らには狩猟犬と雉の死骸がある。1766年に製造されて、最初にこの作品を購入したのは当時の王様であったとされる。モデルとなった女性像は1762年と1763年のFrancois Boucheerの絵画に見られる。
セーブル工房の「ビスケット」という呼び方は、1751年以来の模様も釉薬もないセーブル工房の陶磁器彫刻のことを指す。この呼び名は白い大理石の無垢な冷ややかさを喚起させると同時に、マイセンの彩色された彫刻作品と区別する為に積極的に取り入れられました。
☆Pate tendre(ou PT)☆
ソフトペースト(軟質磁器:PT):セラミック素材の呼称であり、半透明でカオリンの発見以前のヨーロッパにおいて開発された硬質磁器のベースとなる素材。今日、PTは18世紀の素材のバリエーションのひとつであり、1980年にセーブル工房で再開発され、1260℃で焼かれたものが作られました。「ソフトペースト(軟質磁器)のパテは20ほどの要素から構成されています。初めのものは鉱物の結晶、ガベルの塩、岩石の明礬、アリカントのソーダ、モンマルトルの採石場の高熱で焼かれた石膏、そしてフォンテーヌブローの砂で構成されている。全ての素材は焼いてから使用される」
芸術家の師弟の絆は強く又その助言者達にも特別な関係が生れやすい。Marie-Anne Ollot(1748-1821)は Lemoyne のモデルであったがそのアトリエに通うPierre-Etienne Falcontと1777年に結婚した。只1780年には離婚する。この彫刻家の性格は結婚生活には向いておらず、次世紀に対し制作した数々の作品の傾向のように革命的な気性が災いしたようだ。
Falcontの作品に多くのFrancois Boucherの影響を見逃すわけにはいかない。この2人の芸術家はCrecy城の庭園内にある、酪農場に設置するための彫刻像の下見の際 1749年に初めて出会った。この酪農場はポンパドール夫人の別邸として模様替えが行われていた。Boucherの図案てFalcontがビスキュイを制作するパターンは後のセーブル工房での制作へと引き継がれていく。
1757年、王立セーブル工房の彫刻部門責任者に任命される。Falcont は週のうち一日をセーブル工房で仕事をした。磁器作品の前段素焼きの原型作りである。多くの作品はFrancois Boucherの図案構図や絵画からの啓示を受けている。ポンパドール夫人所有のCrecy 城の別邸に置かれた数々の作品もこのBoucherの絵画の影響が多く見られる。その後、次第にFalcontの制作テーマは二つの流れに絞られて来た。一つは「子供」をテーマにした彫像でありもう一つは「 Fontaine寓話」である。只ここでもFrancois Boucherの芸術的相続人であることに変わりはなかった。小彫像の作品群は「動き」に重点をおいてセーブル工房で磁器素材で制作された。この作風は1764年から1766年にかけて広く欧州全体へ波及した。
Falcontは彫像制作において、囲いを使わずソフトペーストのみで造型をする新しい技術を1752-1753年より開発しビスキュイ、小彫像の制作がセーブル工房で始められる。制作期日の大幅な短縮が可能となり裕福で芸術愛好の 一般市民からの注文も可能となり商業的にも成功を収める。Louis Reauの書評に《芸術家が創る彫像 の原型はま るで舞台の仮の彫刻像のように素早く出来上がり、1756-1766年の間は特にその作品群はMoreauの黄色い証書と共に市場に販売されLouis XV 世の世を謳歌した》
Pierre Ennesも彼の展覧会の記事の中で《セーブル工房のFalcont》の題でEtienne-Maurice Falcontのビスキュイ 素材についてふれている。《VASE(カビン)に古式鉄廻し装飾したり、ギリシャ風花ぶな装飾は多分初めての試みであろう。又、同 186ページにこのような装飾は作品を強固に長持ちさせる効用もある。この装飾が次代のセーブル工房のLouis XVI世様式の下地になったことは疑う余地は無い》とも記されている。
並行してEtienne-Maurice Falcont はセーブル工房にて大理石塑像に似た彫像を創り1754-1765年の間定期的に作品の発表を展覧会で行った。(作品名:L’Amour menacant et La Baigneuse1757年作, Pygmalion et Galatee1761年作)又パリの教会の礼拝堂の装飾も制作し、その後Marduel修道院のイコン制作などへの助言もした。複数の大理石像についての図形教本などの制作もおこなっておりその内容は現在においてもなんら古臭いもので はない。
他には個人の好事家に1758年l’Amour Falconet et la Nymphe qui descend au bain の彫像を創った。この作品は後年二つの作品に分けて再度作られ展覧会へ出展された。一つは1761年、もう一つは1762年である。
1766年9月フランスを出国しロシア皇帝Catherine II 世のサンクトペテルブルグヘ移り1778年まで滞在した。その間多くの記念碑制作を手がけた。
フランスに戻った後1783年に病に陥り彫像についての論文整理に専念する。又、古来の芸術文献を学び芸術大学の良き助言者としてあり続けた。Falcontには変わらぬ後援者と友がいる。彫像の良き理解者であるポンパドール夫人1752年にLa Musique、花と果樹の女神の彫像をCrecy城に制作し、1757年L’Amour像をパリの別邸に制作した。この建物は現在は大統領官邸となっている。Falcon tの友人である Denis Diderotの伝評作家でもある が《ここに一人の人間がいる。比較のしようのない万物起源の質のわかる者。彼は土を練る》 Diderotは1759年、百科全書の彫刻に対する技術、哲学の深遠な説明を生みいつまでも変わらぬ友情は終わることが無かった。他にもDimitri Alexievitch Galitzine 王子(ロシア皇帝Catherine II世の在フランス大使も1765 ~1767年に努める)Falcont のロシア滞在中の住居も提供した。1773年には Diderotと3人の面談もロシアで成った。
Etienne-Maurice Falcont は数多くの素焼き塑像も制作した。注文はフランス王の建物のための作品もあるが、特筆すべき新しい装飾は 1753年パリのSaint-Roch教会、Marduel 修道院の作品である。