商品参数
- 拍卖号: 1158241353
开始时的价格:¥77 (1500日元)
个数: 1
最高出价者: - 开始时间: 2024/11/25 11:08:25
结束时间:
提前结束: 有可能
商品成色: 二手 - 自动延长: 会
日本邮费: 中标者承担
可否退货: 不可以
直购价格: ¥129 (2500日元)
拍卖注意事项
1、【自动延长】:如果在结束前5分钟内有人出价,为了让其他竞拍者有时间思考,结束时间可延长5分钟。
2、【提前结束】:卖家觉得达到了心理价位,即使未到结束时间,也可以提前结束。
3、参考翻译由网络自动提供,仅供参考,不保证翻译内容的正确性。如有不明,请咨询客服。
4、本站为代购代拍平台,商品的品质和卖家的信誉需要您自己判断。请谨慎出价,竞价成功后订单将不能取消。
5、违反中国法律、无法邮寄的商品(注:象牙是违禁品,受《濒临绝种野生动植物国际贸易公约》保护),本站不予代购。
6、邮政国际包裹禁运的危险品,邮政渠道不能发送到日本境外(详情请点击), 如需发送到日本境外请自行联系渠道。
新功能上线
鼠标选中一段文字, 可以自动翻译啦!
ハルビン市の歴史
概要
ハルビンは、村は古くからあったものの、現在のハルビンのような「都市」とはなっていなかった。ハルビン市が「都市」になっていったのは1896年からである。1896年、ロシア帝国が東清鉄道を建設したことにより多くのロシア人が移住し、人々の動きは活発となった。また、1917年のロシア革命により白軍の残兵や、迫害を恐れたロシア系ユダヤ人が流入した。これらの異国民の移住によってハルビンは急速に発展、多くのロシア建築が建造された。満洲事変以後は満洲国の領土となり、731部隊司令部が設置されるなどした。その後、満洲国滅亡後は行政機能をいち早く回復、その後第一次五カ年計画で急成長を遂げ、文化大革命などによる被害を受けながらも、中国の大都市としての地位を確立した。
このような歴史から、ハルビンは「中国なのかロシアなのか」と言われるほどロシア帝国の影響を強く受けている。しかし、ロシア帝国の影響を強く受けながらも、典型的なロシアの雰囲気とも違うハルビン特有の雰囲気を作り出している。デイヴィッド・D・バックは、ハルビンを「鉄道都市」とカテゴライズしている。なぜ「鉄道都市」なのか、それは前述のように東清鉄道を巡って主にロシア帝国、清・中華民国、大日本帝国で利権争いが起き、その中で発展した都市だからである。
ジェームズ・H・カーターは次のように述べている。
ハルビン都心部には中国人、ロシア人、その他のヨーロッパ人などによる幾つもの小規模なコミュニティがあったが、そのどれもが「本当の」ハルビンとは呼べない。
先史時代~古代
ハルビン市人民政府によると、最低でも約22000年前、旧石器時代後期には人間の活動が見られている。ハルビンの最古の遺跡として、ハルビン西部の郊外で発見された閻家崗遺跡が挙げられる。閻家崗遺跡では1982年から1985年にかけて発掘作業が行われ、人間の頭蓋骨の化石が発見された。この人間の頭蓋骨の化石は「ハルビンマン」と称され、「ハルビンマン」の他にも同遺跡では31種類の脊椎動物の化石、9つの石器、いくつかの骨器、焼けた骨と破片が発見された。2021年6月25日には、1930年代初頭に発見された人間の頭蓋骨が新種のヒトの頭蓋骨であることが判明、14万6000年前のものだと判明し、「ホモ・ロンギ(英語版)(通称ドラゴンマン)」と命名された。
その後約5000年前になると、新石器時代に突入する。そして、約3000年前、殷王朝末期(晩殷時代)には青銅器を使用するようになる。
そして、殷末期から西周中期にかけてハルビンは、黒竜江省に属する地域としては最古の文化である白金宝文化圏となる。西周の資料によるとハルビンの人々は、独自で制作した矢や石器を進貢し西周に服従を示したとされている。またこのころには舜を起源として、夏・殷から周(紀元前23世紀から紀元前5世紀)にかけて粛慎一族の故郷として、ハルビンは著名であった。
漢代には夫余の一部に、南北朝時代には、北支族の居住地として、隋・唐代は靺鞨の一部に属した。その後、渤海国の一部となる。
中近世
金王朝の首都としての発展
金上京歴史博物館内の完顔阿骨打像
遼(契丹による国家)代の926年、耶律阿保機により渤海は滅ぼされる。この結果、ハルビンは遼の封国である東丹国の一部となる。その後、満州に住んでいた女真族は、生女真、熟女真の二つに分かれ、生女真が長白山から松花江流域にかけて住むようになる。その後、ハルビンは東京道完顔部と名付けられる。
しかし天慶5年(1115年)、生女真首長完顔阿骨打は金軍に敗北。遼を滅ぼした女真による国家金は上京会寧府の名でハルビンに首都を置く。その後、金では路(行政の監察を行う役所名)が整備され、満洲は7路1府に区分された。ハルビンは開元路の管轄下となる。このころの遺跡や物は金上京歴史博物館内で展示されている。しかし、モンゴル・金戦争でモンゴル帝国側が勝利すると金は会寧府を放棄した。
その後モンゴル帝国皇帝クビライは国号を「大元(通称:元)」に改める。至元24年(1287年)には元による正式な統治が開始され遼行省開元路に改名される。
元代のものとして、阿城区金上京城で「管水民戸魯花赤之印」が発見されている。印には「至元15年(1278年)12月、書道儀礼部作成」と刻まれており、意味は「この路(行政区画)は魯花赤(総管)が管理している」というものである。また、パスパ文字が使用されていることも特徴となっている。
衰退
元が滅亡し誕生した明は東北地方に「都司衛所制」を導入した。 東北地方には、遼東都護府(1371年設置)と魯安都護府(1409年設置)が設置された。ハルビンは奴儿干都司と改名された。
清代に突入すると政府は中原に特殊な制度を適用させた。中国東北部は満洲族の故郷であり、この地域は特別であるとされ、軍政制度もその他の領土とは違う制度になっていた。 清は明時代の東北部の都司・衛所を廃止し、盛京(現在の瀋陽)に防内大臣を置いた。 順治3年(1646年)5月、奉天・昂邦章京(盛京将軍)を将軍とし、ハルビンは八旗による防衛が行われた。
ハルビンを統治した官職の簡略図。「>」はヒエラルキーを表し、例として「黒竜江将軍>チチハル副都統」は「チチハル副都統は黒竜江将軍に管轄下である」ことを示している。この図の「基本的なヒエラルキー」とその他区切られた図より、呼蘭副都統を除いて、ハルビンは将軍による統治が行われていたことが分かる。
順治10年(1653年)5月、寧古塔に、アムール川(黒竜江)・ウスリー川沿岸一帯を抑える軍事組織である昂邦章京(アムバン・ジャンギン)、梅勒章京(メイレニ・ジャンギン)が設置され、寧古塔によるハルビン統治が強化されていく。その後昂邦章京は寧古塔将軍に、梅勒章京は副都統に改められる。ハルビンは寧古塔副都統の管轄下であった。
康熙15年(1676年)、寧古塔将軍は吉林へ移駐(吉林将軍(中国語版))。当時、将軍の下には副都統、副都統の下には協領というようなヒエラルキーであった。雍正2年(1724年)、阿勒楚喀(阿城区)に協領を設置。乾隆9年(1744年)には、拉林(ハルビンも含まれる)に副都統を設置。ハルビン・松花江南岸地区は拉林副都統の阿勒楚喀協領が管轄するようになる。
乾隆21年(1756年)、阿勒楚喀協領は副都統に昇級、阿勒楚喀副都統が設置され、ハルビンも阿勒楚喀副都統の管轄下となる。乾隆34年(1769年)、拉林副都統が廃止、拉林副都統の管轄は阿勒楚喀副都統に委ねられ、阿勒楚喀副都統の下に阿勒楚喀協領と拉林協領の2つの協領が設置される。これにより、ハルビン・松花江南岸地区は阿勒楚喀副都統の阿勒楚喀協領と拉林協領が管轄するようになる。
康熙23年(1683年)、清朝は満洲に黒竜江将軍を増設し、松花江中流から黒竜江境界までを管轄した。康熙37年(1698年)、チチハル副都統が設置された。ハルビン・松花江北岸地区は、黒竜江将軍の下でチチハル副都統が境界を統轄している。同治元年(1862年)に旗民分治によって呼蘭庁が設置され、ハルビン・松花江北岸地区はチチハル副都統傘下の呼蘭庁が管轄した。光緒5年(1879年)、呼蘭副都統が増設されたが、ハルビン・松花江北岸地区は呼蘭副都統の傘下、呼蘭庁の管轄で、特に変わりはなかった。
清初期に行われた旗人入関後、康熙16年(1677年)から、清は満洲を皇室の「発祥の聖地」とし、「悉行封禁」を発布。満洲地域に一般人が入ることを禁止した。この禁止令の下で、かなり長い期間、満洲中・北部地域では、八旗兵が駐屯する集落が徐々に拡大していきはしたが、基本的に土地は閉鎖されたため、荒れ果てていた。しかし清後期になると、一般市民も封禁を突破して満洲地域に侵入しようとし、八旗兵も土地の開拓のためなどで一般人の労働力を必要としていた。そのため、一般市民や八旗兵は清朝の禁令を顧みず、裏で満洲で開拓を行ったり、耕作したりしていた。乾隆時代、吉林将軍の管轄地(ハルビンも含む)はすでに「八旗兵が持っている国民との共有地」状態になりつつあった。嘉慶8年(1803年)、清は「訂定臨時移民章程」を公布し、満洲を出入りする制限を緩和した。禁止が緩和されると、満洲への移民者数は年々増加し、道光時代には、「八旗兵の集落より、民家の方が多い」と言われるようになっていった。
近代
清末期
東清鉄道敷設による急速な発展
大清帝国末期になるとハルビンの名は「民官」となった。
19世紀末にはハルビンには数十の村でできており、3万人ほどが在住していた。そのほとんどが漁と狩猟で生計を立てていた旗人であったという。しかし、1881年に黒龍江省牡丹江市穆市で金鉱が発見され、ハルビンにも移住者が増加した。そして、これ以降、東清鉄道が起点となり、大きく人口を増やしていくこととなる。また、ハルビンは松嫩平原の南に位置し、豊かな農牧漁業地帯となっている。それに加え闖関東政策を大清帝国がとったことから、清代末期には、山東省、河北省などの省からの移住者がやってきて、続々とハルビンを開墾し、漁業・牧畜業及び手工業生産に従事し、村の数は次第に増加し、一部は徐々に郷鎮ほどの規模になっていった。光緒2年(1876年)の統計によると、ハルビン・松花江北岸の水師営官屯と付近の各村だけで、3730世帯、28257人が住んでいた。その時、全ハルビン地区には100余りの村があり、人口は少なくとも5万人以上だった。
またこのころになると、「ハルビン」との名称も資料上確認できるようになる。初めて資料に「哈爾浜」が登場したのは同治三年(1864年)である。黒竜江将軍衙門の書には、「墨根上年船只于哈住、今年挽回、此呈事(昨年墨根(中国語版)が所有する船は哈爾浜で凍っていたが、今年は挽回したので報告した)」と記されている。「哈爾浜(ハルビン)」という名の由来については、2024年時点でも諸説ある。例として「満洲語で「魚網を干す場所」を指す言葉説」、「満洲語で羊肩胛骨を指す言葉説」、「「哈勒費延(ハレフィエン)」に「扁(ビン)」を足した説」、「女真語で阿勒錦島(ハルビン内にある島)を指す言葉説」、「女真語で白鳥を指す言葉説」、「モンゴル語で平地を指す言葉説」、「ツングース語で「官渡口」を指す言葉説」、「ロシア語で「大墳墓(古代中国の墳墓の一種)」を指す言葉説」、「人名説」などが挙げられている。
日清戦争後、清は日本と下関条約に調印し、台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本に割譲した。しかし、これに対し日本に警戒心を抱いたロシア帝国はフランス第三共和政、ドイツ帝国と共同でこれに介入し、日本に遼東半島を清に返還するよう強く要求した。 所謂「三国干渉」である。しかし、これは決してロシア帝国が遼東における中国の主権を守るためのものではなかった。帝政ロシアは1891年にチェリャビンスクからウラジオストクまでのシベリア鉄道線の建設に着手し、距離を短くするために、満洲を支配しようと考えていた。1896年6月3日、モスクワでロシア帝国と清の間で「露清密約」が締結される。これによりロシア帝国は中国東北部に鉄道を建設する権利を持った。1898年5月、帝政ロシアはハルビンを東清鉄道の重要地点及び東清鉄道の管理地に指定した。そして1896年から1903年にかけて、セルゲイ・ウィッテによりハルビンに東清鉄道の鉄道路線や、それに伴いハルビン駅が建設された。これによりハルビンの人口は増加し、工業・商業は大幅に発展、一気に近代都市となった。この発展によってできた街並みは、「東洋のモスクワ」や、「極東のパリ」、「東洋のサンクトペテルブルク」と呼ばれるほどであった。1898年からは、水文のデータもとられるようになった。また、ユダヤ人も2万人以上が移住し、多くの店を開いた。一方でハルビン内において帝政ロシアは大きな影響力を持つようになる。
実際にロシアはただただ鉄道を敷いていたわけではない。ロシア皇室・政府の間では、いずれ満洲の支配権を得る計画であった。
1900年、義和団の乱が発生すると、列強は八カ国連合軍を結成し、義和団の鎮圧にあたった。ロシア帝国も参加しており、これについて宰相ヴィッテと陸軍大臣クロバトキンは
クロバトキン: この事件(義和団の乱)を口実に満州を第二のブハラにする。
ヴィッテ: 今の満州でのロシアの影響力を維持するために、あまり中華民国を刺激するべきではない。
といった会話を行っていたという。
当時、東清鉄道の東側、道外は漢民族が殆どなのに対し、西側の道裏にはロシア人など多くの外国人が居住していた。しかし、少し時間が経つと道外にも多くの外国文化が見られるようになる。1900年、ロシアの実業家チュリンがハルビンの道外区にやってきて、「チュリン外国銀行」という多国籍企業を設立・設置、その他デパートを運営し、赤いソーセージやレバ(パン)などのロシア食品をハルビンに持ち込んだ。同じ頃、ロシアの実業家ウルブレフスキーも道外にウルブレフスキー醸造所を設立した。これは中国初のビール醸造所であり、ハルビンビールの前身でもある。
これらの当時の施設で最も有名なのは、ユダヤ人であるシモン・カスぺによって運営されていたモダンホテルであろう。 ダイニング、エンターテイメント、宿泊施設を統合したモダンなホテルで、極東で最も豪華なホテルの1つであった。 ホテルで販売されていた冷たい飲み物「馬迭冰棍」は100年を経て、ハルビンの特産品となっている(2024年時点)。
聖ソフィア大聖堂
中央大街の街並み
ホテルに加えて、銀行、宝石店、衣料品店、その他の店も、道外・道裏などに集まっており、中央大街は当時中国で最もファッショナブルな商店街であるだけでなく、中国最初期の歩行者空間をつくりだした。
1907年に建てられた聖ソフィア大聖堂は、もともとロシア帝国軍の礼拝堂であったが、ロシアの実業家I.F.チスガコフの招きで、ロシアの建築家コヤシコフによって再設計・改修され、9年の歳月をかけて1932年に極東最大の正教会として完成した。
1909年10月26日、ハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が安重根に暗殺される。同年、極東最大と言われたロシア系の「チューリン百貨店」が大直街に開店した(キタイスカヤ街店は1919年)。1908年にロシアが極東における自由貿易港廃止を決定し外国商品に高い関税を課すと、ウラジオストックからハルビンへ拠点を移す企業が現れ始めた。
1911年7月には、東清鉄道局の調査統計によると、当時のハルビンにはロシア人、イギリス人、ドイツ人、日本人、朝鮮人など約6万人の外国人がいた。
日露戦争が勃発するとロシア帝国は敗戦しポーツマス条約を締結。東清鉄道南満洲支線やその支線が日本に割譲され、南満洲鉄道となった。これによりハルビン駅に繋がる支線の大多数は南満洲鉄道のものとなった。
1907年1月14日(光緒32年)、清政府はハルビンを「対外交易拠点」として開放することを決定した。1月23日には、吉林省省長は、浜江庁を設置し、哈爾浜関道で政治を行った。4月18日、初代浜江庁・江防同知は傅家店で関防に当たった(清朝によるハルビン駐在)。その後、1909年から1911年までの間にハルビン市内の双城区と阿城区が浜江庁に編入された。中華民国成立後の1913年3月、浜江庁は「浜江県」に変わった。
中華民国
1912年1月1日、清は辛亥革命により滅亡、中華民国が建国される。
利権争いによる民族主義の台頭
1914年4月30日、在ハルビン英国領事スライ、在ハルビン露帝総領事トラウショリット、東清鉄道社臨時代理は、「将中東鉄路界内自治及納税章程推行于界内英国人的協定」(「英露協定」と呼ばれる)に調印した。この協定は、東清鉄道所有領内の租界におけるロシア人の自治権を認め、東清鉄道内の英国人駐在員も租界内のロシア人と同じように自治権と、免税権までも有することを認めるものであった。一方この内容に対し中華民国政府とその国民は反対した。
その後の2年間の内に、アメリカ、フランス、日本、デンマーク、オランダ、イタリアなど10カ国がこの協定に参加し、同じような権利を保有することが認められた。 それ以来、30カ国から10万人以上の駐在員がハルビンに集まった。 また、20カ国がハルビンに領事館を設置し、ハルビンは国際都市となった。しかし、帝政ロシアを中心とした社会で、まだ中華民国に入る隙はなかった。前述の、協定に調印した国家はハルビンに数万社の工業、商業、金融などに関する企業を設立し、輸出入貿易に特化した商工会議所を設立した。
1916年頃からは、ハルビン内でナショナリズムの風潮が高まる。しかし、外国人への敵意を見せながらも、一方で協力しようとする姿勢が見られる他、民衆の運動ではなくあくまでエリート層の運動なのがハルビンのナショナリズムの特徴となっている。これらのハルビンのナショナリズム運動を在ハルビン米国領事は「中国化(Chinafication)」と表している。この頃ハルビンではナショナリストが集まった大きな会が作られており、建国途中で悪戦苦闘している中華民国政府の中で、国家の安定のために民族覚醒を求めた。その代表例たるものが東華学校建設である。東華学校は近代的な学習と中国の国家主義を強調する学校としてハルビンのナショナリズム運動の基盤を育てた。
一方、ナショナリストの会は幅広い人々の寄せ集めであった。例えば儒学者、仏教僧、西洋志向の学生、共産主義組織者、軍国主義官僚など様々な人が集まっていた。そのため、会はすぐに崩壊状態に陥った。
1919年3月、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの国々が中国政府による東清鉄道の経営権を剥奪し、連合国鉄道管理委員会を結成。委員会による経営を行った。 1920年以降、中国政府は東清鉄道の経営権を取り戻し、1924年には中国とソ連が正式に契約を結び、東清鉄道を「共同経営」することを決定した(北京協定)。以後、東清鉄道は「中華民国東省鉄道」、略して「中東鉄道」と改名された。
1920年代初頭、列強によるハルビンの実質的支配に反対するデモが行われるようになる。地元議員は外国人による実質支配のシンボルであったロシア語のものをとにかく攻撃した。同時に、仏教僧虚は、ハルビンは中国の地の1つだから仏教寺院が必要だと主張し、中国人のアイデンティティにおける宗教的要素を見いだし、極楽寺の創設に貢献した。
1926年9月、バスケットボール大会が開催。キリスト教青年会(YMCA)主催で、9チームが参加した。この大会では、ロシア人を中心に構成された主催のYMCAチームが勝利した。決勝には中国の東華学校チーム[注釈 7]も参加していたのだが、アメリカYMCA所長ハワード・ハーグは「東華学校のプレーは粗く、スポーツマンシップも欠如している」とコメントしている。ハーグは加えて、中国は確かにロシア側が勝利した決勝戦を、中国側の勝利と主張し「中国側の得点を審判は故意に無効とし、ロシア側は棒などで攻撃してきた」などと発言していたとも述べ、アメリカ側やロシア側は攻撃などしておらず、中国人サポーター(東華学校の学生)が審判に不公平だとして暴力をふるったとした。
この騒動の延長線上で、YMCA事務所に中国人サポーターが石やレンガを投げつける事件が発生。米国領事の要請により出動した中華民国警察によって追い返されたものの、20枚のガラスが割れたり、12人ほどが負傷したりなどの被害が出た。東華学校側は、校長が「友好的な解決を望む」として、破損したガラス20枚分を賠償した。外国人向けの新聞『ハルビン・デイリー・ニュース』は「この事件の裏には、普通の学生騒動以上の何か(ロシアへの恨み)があることは明らかである」とコメントした。ほか、地元の中国語新聞はロシア人と、ロシア人を擁護するアメリカ人の行動を非難した。ハルビンの中国人にとって、これらの出来事は、「帝国主義者(ロシア・アメリカ)は、中国の主権を踏みにじった」ように見えたわけである。
ロシア革命の影響
1917年10月、ロシア帝国でボリシェヴィキ主導のもと十月革命が勃発。これによって、ロシア帝国の政治家、貴族、内戦によって家を失った人々らがハルビンに亡命した。統計によると、1922年には15万5000人のロシア人がハルビンに入国し、ハルビンの人口は約35万人に急増したという。また、革命に感化された共産主義者は1917年9月にハルビン・ソビエトを発足。東清鉄道の利権を狙った。このように流民してきたロシア人の中には、ヴァレリー・ペレレシンといった著名人もいた。
そのほか、ソ連国内での迫害を恐れたロシア系ユダヤ人は、極東にユダヤ自治州を設置する前に、ハルビンに逃亡することが多かった。またロシア革命時よりかは少ないが、このようなユダヤ人の移民は、ロシア帝国時代からあった。アレクサンドル3世とその息子ニコライ2世はいずれも超保守的な政治家・思想家コンスタンチン・ポヴェドノスツェフに傅育され、強い影響を受けていたため、強制移住などさせられる可能性があったからである。1913年までに、約5千人のロシア系ユダヤ人がハルビンに住んでいたと推定され、この数は1920年には約2万人に増えている。しかし2018年時点でハルビンに流入したユダヤ人の遺物は2つのシナゴーグほどしか残っていない。ちなみに、イスラエルの元首相であるエフード・オルメルトの親族も当時ハルビンに住んでおり、2004年にはオルメルトが墓参りを行っている。
行政沿革と中共進出
1921年2月5日に東省特別区市政管理局が設置、ハルビン市の行政を担当するようになる[48]。経済面では、1920年代にはハルビンでも中国人による起業が増え、1929年の世界恐慌や中ソ紛争の影響で、満洲のロシア系ビジネスは大きな打撃を受け、ハルビンでもロシア系資本の一部は閉鎖を余儀なくされ、中国人への売却や外国資本との合弁が行われた。
1921年の中国共産党創立直後、革命家・馬俊はハルビンに派遣され、共産主義思想をハルビンに広め、党支部設立の準備を行った。1923年、中国共産党中央委員会は陳為仁をハルビンに派遣し、陳を代表として東北部初の党組織である中国共産党ハルビン独立組を設立、1924年6月、陳を代表として中共哈爾浜支部が設立された。1925年、中国共産党北方局は呉麗石を派遣。1927年10月、ハルビンで東北部第一回党大会が開催され、陳為仁を書記とする中共満洲省委臨時委員会が設立された。その直後、陳為仁は奉天(現在の瀋陽)に赴いた。1929年6月に中東路事件が発生すると、中共満洲省委員会書記の劉少奇、陳潭秋が相次いでハルビンに訪れた。 1930年の国際労働節には、中共満洲省委員会執行委員の林仲丹(張浩)がハルビンに赴き、大規模な集会とデモ行進を行った。
この間、中華民国北洋政府は「東省特別区市政管理局和行政長官公署」を設置し、1926年3月30日、白軍の残党の影響が強かった市議会と理事会、別の市自治委員会グループの解散を命じ、ハルビン特別市を設立した。 これによって、28年間続いたロシア人が大きな影響力を持っていた時代は終わり、中華民国にハルビンの行政権が戻って来たのであった。
満洲国
1932年、柳条湖事件により満洲事変が勃発。これにより満洲地域には満洲国が建国され、1933年7月1日にハルビン特別市が成立し、満洲国の一都市となった。ハルビンも満洲事変において、1932年2月、戦場となった。